言葉と体験実りの秋、豊穣の秋です。夏の厳しい暑さが影をひそめて、涼風が吹きはじめ豊かさが地上に満ちてくるとき本質のわたしも、豊かさそのものとして果てしなく拡大していくことを感じます。本質のわたしとはさえぎるものの無い広大さであり、拡大するパワーです。それは愛とも、豊かさとも、輝きとも言えてただ、それらはひとつの表現でしかないので本質はそれをはるかに超えているのです。言葉とは概念であり、同時に観念をも含んでいて発したとたんに、小さな囲いの中に閉じ込められるような感覚を得ます。言葉はこれほどに限定ですが私たちは、言葉をもって伝達することが標準です。言葉はある意味発明ですが、それによって逆に伝達が狭められるのです。これもひとつのカルマでしょう。しか...29Sep2016本質、在るサイレンスレゾナンス
思考が作っている現実世界から離れること体(個体、物質)が自分であると思っていると世界は物質として現わされてきて、それを見ます。思考が現実を作るからです。左脳が自我の働きで、その現実を視覚的に伝える操作をしているのです。左脳が休んでいるとき、世界は別の見え方をすることを体験します。セッションで思考が鎮まった状態になると、周囲の物はみな、輝いて見え始めます。色彩は鮮やかさを増し、エッジはシャープになって、生命の輝きを感じたりするのです。さらに、ものとものの境目とか、当たり前にそうであったところが崩れてきます。これは気づきです。体験とはすべてが気づきだからです。気づきは、右脳の世界です。アーティストたちの見ている世界です。思考が作っている現実世界から離れることは自分とは、決し...27Sep2016サイレンスレゾナンス無我・無思考
気づきの無い人はいない人は皆、生まれたときは言葉を知りません。その後に育ちの過程で、言葉を学び、得るのです。言葉とは、概念を音という波動で表現するものですがそこに観念が宿ります。そしてそこから現実化は起こるのです。しかし、しかし言葉さえも気づきです。これは経験そのものです。私たちは、言葉を発したその瞬時にそれを体験しているのです。気づき、体験、概念化、観念、現実化。。。これらもひとつです。分かたれる何物も、ここにはありません。これは既に気づきですから私たちは誰一人として、覚醒していない人はいないとはこのようなことを言うのです。気づきの無い人はいませんから。初めから、ずっと。。。それは何も難しいことなどなく思考の無い瞬間を誰もが知っていてそれが覚醒、在る、...26Sep2016サイレンスレゾナンス無我・無思考
頭の知識と本質の叡智非二元の概念に出会ったとき自我(思考)は、分からないと言ってくるでしょう。それはそうです。これまで生きて来て学んだ中で知っている考え方、概念、論理、、どれとも合致しませんから。分からなくて当たり前です。ただ言えるのは頭の中の知識とは、まったく世界が、次元が違うことです。知識とは、言い換えてみれば、限定です。どれも、これこれであると、すでに決められたことを学びます。人類が歴史の中で、知りえたこと人がこの小さな頭脳で考えたことその、言わば結論を体系づけたものだからです。これは、考えることの限界を表現しているとも、言えるのです。翻って、本質からやってくることとは人の頭の限界を、軽く超えていますから始めから、考えて分かるはずがないことなので...23Sep2016無我・無思考
見るものと見られるもの私たちは、見ることを通じて世界を認識しています。このことは、視覚のある人には共通の認識でしょう。見るとは、あなたの主体的な行為と感じていることでしょう。では、見られるものとは何でしょうか。主体に対する客体(対象)ということですが多くの人が対象と思っているのは自分自身と感じている、この体や心、以外の全部でしょう。mananaも長くそうと思い込んだ時期を過ごしてきましたがある時、それがひっくり返るのを体験します。見るものと見られるものとが(体や心を含めて)実は主体と客体という分離した状態のものではなくそれらは分かちがたくひとつ(一体)でありすべてはこの本質の私(在る、プレゼンス)という主体の内側のこと(内側という言い方をしていますが、外...22Sep2016本質、在る
意識と無意識私たちはそもそも意識存在であるのでつまりそれは、私たちが気づきそのものだということです。意識には、表層に表れている氷山の一角と言われるこの顕在意識(表層意識)とその下に眠る膨大な潜在意識(無意識)のエリアとがあります。私たちが日常で認識しうるのは、表層の意識のみですがこれらは、本質的にはすべて私たちそのものです。その潜在意識下に眠っている、個人のエリア(個人的無意識)の向こう側には全体の潜在意識(集合無意識)のエリアがありそれは、過去にさかのぼる人類の歴史すべての記憶です。これは、あの有名な氷山の絵で説明される、ユング心理学で言っていることです。この集合無意識が、いわゆるアカシックレコードであり真我、在る、実存と呼ばれる私たちの本質...20Sep2016本質、在る
ゼロから湧き出でるもの今、セッションではいろんなことが起こっています。ゼロから、無のこれから、湧き出でるものは現われの意図しないことですから。こう、と思っていても、それではないものが出てきたりするので予測のつかない面白さがあります。ブログ記事を書いていても、自動書記的な起こりから現われの自己では、知るはずのないことを書いていてハッとすることはちょくちょくありますがそれが口頭で、言葉で起こると、記憶にまったく残らないために自分で何を言ったのかが、結果、分からないのです。もう、これこそサレンダーです。現われには手の打ちようも何もないことを、知らされます。同じレベルで、やろうとしていることが乗っ取られます。もう、サレンダーです。あなた(本質の自己)の好きにこの...18Sep2016サイレンスレゾナンス
投影誰もが、自分自身の認めたくないクセや傾向を持っています。それを良い悪いと判断したときに悪いと思えることは認めたくないので、考えの外へ追いやります。闇に葬ってしまうようなことが起こるわけです。自分の闇の部分は、どうしたって向き合いたいと思えないから。その闇の部分は、普段は表に出て来ないけれど私たちは全体でひとつ、ワンだから向き合った相手にそれを見てしまうのです。あなたの人生の中で、そのときその人が、それを見せてくれるのです。日常の中で、それは起こります。親子で、夫婦で、友人や仕事の関係性の中でそれはいつでも起こされて、見る羽目になるわけです。たとえ親子の縁を切っても、離婚しても、転職しても自分自身が変わるその日まで、終わることなく見続...16Sep2016無我・無思考
あなたが、どうですか? あなたの今はどうですか?幸せですか?それはあなたの周囲の人がどうか、とか仕事や家庭や誰かとの関係性がどうかではなくて純粋に、あなたがどうか?なのですね。それは、思考の声を聞くことではないのです。あなたがどう思うか、ではないことです。あなたの今が、どう在るか。そこのところ。純粋に、外側の影響を受けていないところ外側ばかりを気にしていないところなのです。あなたの今は、どうですか? 14Sep2016本質、在る
本質の自己の視点で生きるとは例えば、とても疲れているとしてその時あなたの頭の中では、何をしゃべっているでしょうか。「あ~もう、疲れた~」「足がパンパン。もう嫌になっちゃう」「だから〇〇行くの嫌だって言ったのに~」「✖✖さんのせいだわ。もう、サイテー」こういうことも遠くなってしまって、想定が半端で申し訳ないのですがつまり、どんな感じでも、頭の中ではあれやこれや飛び交っているわけです。疲れたことから、いろんなことへと飛び火して、何かや誰かのせいにしたりすることだってあるでしょう。想像してみてください。このとき、頭の中がシーンと静まっていたら、どんな感じでしょうか。そもそも頭の中で「疲れた」という言葉が出てこないわけです。「足がパンパン」も出てきません。誰かや何かの...13Sep2016
在るだけで至福雄大な風景を俯瞰するときあなたは無になるでしょう。山頂に昇る朝日、海に沈む夕日、山々に秋の気配を見たり雪景色に圧倒されたり、夏の夜の花火大会ですら、そうでしょう。美しさ素晴らしさに息をのむ、というようなとき人は言葉をなくします。言葉をなくして、ひたすら見つめつづけるのです。そのとき、圧倒的な幸せを感じていると思います。少し前、ニュースで花火大会帰りの少年がインタビューされていましたこれまでだったら、きれいだった~とか、すごかった~みたいな感想が「幸せだった~」と言っていたのです。とても印象的でした。これは一見、条件のある幸せのようにも見えますがこれこそが本質の自己、在る、そのものの感覚なのです。「美しい景色を見たから(条件)」幸せを...12Sep2016無我・無思考
自分は何でできているかかつては自分は肉体だと思っていました。その頃は、自分がいて家族がいて友達がいて、外側に世界は広がっていると思っていました。ハートは知っていたけれど、世界観は普通にそう感じていたんです。誰かに教わったんでしょうか。直接教わらなかったとしても、幼い頃に家族の会話を聞いているだけで自然とそうなのだと認識したのでしょう。少し前までは、自分はエネルギーだと思っていました。エネルギーワークを始めて以来、楽しくて面白くて、夢中で続けていました。エネルギーに触れてそれを感じて、オーラを見て、そういう学びをして世界はすべてエネルギーでできていると信じられました。エネルギー体感が強まるほどに、その実感は強くなっていました。今は自分とは、開かれた、純粋な...11Sep2016無我・無思考