自己探求遊び ~無思考のためにアメブロ記事と内容がリンクしています。あえて「遊び」です。現象自体の真実味が薄れているので。~☆~☆~☆~☆~☆~思考を見つめ続けようとすると、ふわふわとそれは際限なく湧き起こる。それらはすべてが自動で起こってきていて、源泉は見あたらない。それよりも、自己の中心と思われる方向を追求していく。ハートでも、眉間でも、頭の上でも、後方でも。 目を開けたままだと、文字を読みに行きたくなる衝動がやってくる。普段読まない本にまで手が出そうだ。自我がじたばたし始めるからだ。なので意識を内に向けて、文字のないところを見つめる。見つめ続ける。。。。。。。。無思考が起こり、もあもあと湯気のような、気、オーラ、が見え始める。無思考が起こった段階で、自我は...10Jan2017本質、在る無我・無思考
無思考、無我の体験のその先はお試しセッションで波動が高まると無思考、無我の体験が起こりそれによって本質からの光が差し込みます。すると、一元の体験に近い感覚を覚えさらに大きく浄化が起こってくるのです。mananaが驚くほど、クリアになる方がいらっしゃいます。ただこれは体験なので、ほとんどの場合一時的なものです。1か月も経たないうちに波動も感覚も、ほぼ元に近いところまで戻ることが多いです。長い目で見れば、更なるプロセスがそこから始まっているのですが今生、高いハードルを掲げてきたケースでは気づきに気づいたこととのギャップを埋めるためにそこから始まるプロセスはハードでしょう。それをひとりで何とかしようとするのはなかなかですからそのために、週一のセッションが用意されてい...25Dec2016サイレンスレゾナンス無我・無思考
ダイレクトパス実験 物には、みな、さまざまに思考がくっついている。例えば、ミカンを見れば、その甘さや酸っぱさだけでなくどこそこでいつ買ってきた、どこ産のミカンだ、などと。ふとテーブルのカップを見れば、誰それのカップであるとまずその所有者が浮かび、さらにそれにまつわる思考が浮かぶかもしれない。テーブルを見ればそれがテーブルだと認識し壁や天井を見るならば、それは壁だ天井だと認識している。実は、この一見あまりに当たり前すぎることがわたしたちの認識をゆがめ、正確に物を見ることをゆがめているのです。 ミカンと自分との間に距離はあるか?と問われたとき自分はこの思考感情であり、この体に居る。ゆえにミカンやテーブルとの間には距離がある。壁や天井との間にも距離があ...05Dec2016本質、在る無我・無思考グレッグ・グッド
空っぽ空っぽ。ハートの内側を眺めていると空っぽしかないのに気づく。それまで「私」という人が確かにいたと思っていたとしても実際、その中心には何もなくまったくの空間だったのです。広大な、開かれた空間。屋根もなく、壁もない。もちろん体もない。そのときそのすべてに気づいているのがあなたです。気づかれているすべてがあなたです。 あなたはもともと、開かれた広大さそのものだから。。。 26Oct2016本質、在る無我・無思考
本質の自己私は知っていると主張するのは、自我(エゴ)です。私は分からないと言ってくるのも、自我です。そのどちらもが頭の中のおしゃべりですからそれらが鎮まったときに初めて、本質の自己が顕わになるのです。本質の自己はただ在るだけで何も主張しませんから 16Oct2016本質、在る無我・無思考
沈黙からの起こり、記憶からの起こり少しの沈黙でそれを迎え入れたとき言葉は、本質からやってきます。叡智からの言葉が起こるのに、気づくのです。これは未知です。記憶や体験によらない、野放図な根源からの起こりです。頭で考える言葉は、潜在意識からやってきます。潜在意識は記憶の集積ですからすでに知っている、あるいは体験済みのところから湧き出でてくるのです。なので、突飛なことは起こりません。時代を、知恵や知識から、ジャンプするようなことは起こらないのです。このことの違いに気づくようになるといろいろなからくりが見えるようになってきます。しかし、見えてもそれだけ。それをどうこうしようとする、自我が居ません。静けさに包まれています。そんな、今日この頃です。。。11Oct2016起こること本質、在る無我・無思考
深まる静寂津々と深まる静寂と自我のおしゃべりのボリュームとはまったく反比例します。自我が鎮まる=私が舞台の袖へと去っていくことで本質のスペースが大きく広がり始めるのです。ここでは、何の気負いもなく邪念もなくただ開かれて在るだけです。起こる言葉にも個人はなく個性を超えた、本質からの起こりです。ただただ、ひたすら楽な生き方がここにあります。09Oct2016無我・無思考
思考が作っている現実世界から離れること体(個体、物質)が自分であると思っていると世界は物質として現わされてきて、それを見ます。思考が現実を作るからです。左脳が自我の働きで、その現実を視覚的に伝える操作をしているのです。左脳が休んでいるとき、世界は別の見え方をすることを体験します。セッションで思考が鎮まった状態になると、周囲の物はみな、輝いて見え始めます。色彩は鮮やかさを増し、エッジはシャープになって、生命の輝きを感じたりするのです。さらに、ものとものの境目とか、当たり前にそうであったところが崩れてきます。これは気づきです。体験とはすべてが気づきだからです。気づきは、右脳の世界です。アーティストたちの見ている世界です。思考が作っている現実世界から離れることは自分とは、決し...27Sep2016サイレンスレゾナンス無我・無思考
気づきの無い人はいない人は皆、生まれたときは言葉を知りません。その後に育ちの過程で、言葉を学び、得るのです。言葉とは、概念を音という波動で表現するものですがそこに観念が宿ります。そしてそこから現実化は起こるのです。しかし、しかし言葉さえも気づきです。これは経験そのものです。私たちは、言葉を発したその瞬時にそれを体験しているのです。気づき、体験、概念化、観念、現実化。。。これらもひとつです。分かたれる何物も、ここにはありません。これは既に気づきですから私たちは誰一人として、覚醒していない人はいないとはこのようなことを言うのです。気づきの無い人はいませんから。初めから、ずっと。。。それは何も難しいことなどなく思考の無い瞬間を誰もが知っていてそれが覚醒、在る、...26Sep2016サイレンスレゾナンス無我・無思考
頭の知識と本質の叡智非二元の概念に出会ったとき自我(思考)は、分からないと言ってくるでしょう。それはそうです。これまで生きて来て学んだ中で知っている考え方、概念、論理、、どれとも合致しませんから。分からなくて当たり前です。ただ言えるのは頭の中の知識とは、まったく世界が、次元が違うことです。知識とは、言い換えてみれば、限定です。どれも、これこれであると、すでに決められたことを学びます。人類が歴史の中で、知りえたこと人がこの小さな頭脳で考えたことその、言わば結論を体系づけたものだからです。これは、考えることの限界を表現しているとも、言えるのです。翻って、本質からやってくることとは人の頭の限界を、軽く超えていますから始めから、考えて分かるはずがないことなので...23Sep2016無我・無思考
投影誰もが、自分自身の認めたくないクセや傾向を持っています。それを良い悪いと判断したときに悪いと思えることは認めたくないので、考えの外へ追いやります。闇に葬ってしまうようなことが起こるわけです。自分の闇の部分は、どうしたって向き合いたいと思えないから。その闇の部分は、普段は表に出て来ないけれど私たちは全体でひとつ、ワンだから向き合った相手にそれを見てしまうのです。あなたの人生の中で、そのときその人が、それを見せてくれるのです。日常の中で、それは起こります。親子で、夫婦で、友人や仕事の関係性の中でそれはいつでも起こされて、見る羽目になるわけです。たとえ親子の縁を切っても、離婚しても、転職しても自分自身が変わるその日まで、終わることなく見続...16Sep2016無我・無思考
在るだけで至福雄大な風景を俯瞰するときあなたは無になるでしょう。山頂に昇る朝日、海に沈む夕日、山々に秋の気配を見たり雪景色に圧倒されたり、夏の夜の花火大会ですら、そうでしょう。美しさ素晴らしさに息をのむ、というようなとき人は言葉をなくします。言葉をなくして、ひたすら見つめつづけるのです。そのとき、圧倒的な幸せを感じていると思います。少し前、ニュースで花火大会帰りの少年がインタビューされていましたこれまでだったら、きれいだった~とか、すごかった~みたいな感想が「幸せだった~」と言っていたのです。とても印象的でした。これは一見、条件のある幸せのようにも見えますがこれこそが本質の自己、在る、そのものの感覚なのです。「美しい景色を見たから(条件)」幸せを...12Sep2016無我・無思考