私たちはそもそも意識存在であるので
つまりそれは、私たちが気づきそのものだということです。
意識には、表層に表れている氷山の一角と言われるこの顕在意識(表層意識)と
その下に眠る膨大な潜在意識(無意識)のエリアとがあります。
私たちが日常で認識しうるのは、表層の意識のみですが
これらは、本質的にはすべて私たちそのものです。
その潜在意識下に眠っている、個人のエリア(個人的無意識)の向こう側には
全体の潜在意識(集合無意識)のエリアがあり
それは、過去にさかのぼる人類の歴史すべての記憶です。
これは、あの有名な氷山の絵で説明される、ユング心理学で言っていることです。
この集合無意識が、いわゆるアカシックレコードであり
真我、在る、実存と呼ばれる私たちの本質が含むエリアです。
最深部は絶対無の領域となるのです。
これは、ひとつひとつの領域に壁があったり、区切りがあるわけではなく
限りなく続いているのに、なぜか私たちの自我にはそこを超えることが困難に感じます。
心理学の分野でも、門があり、そこを通してくれない厳しい門番が居る
なんて説明があったりします。
この心理学からのアプローチでは、心の内へと向かう旅ですが
ここをずっと旅し続けると、やがて私たち現われ存在にとっては外側と感じている
この現われの世界全体へと続いているのに気づくでしょう。
それは、それまで内側を探求しているはずだったのに
ある時点で外側へとぐるっと向きが変わることです。
そのとき大きく視点が変わって、真我、在るからの一元の視点を得るのですが
これは、得るというよりも、もともとそうであったことに気づくことです。
それまでは気づきとは何かを、分かっていないまま生きていて
あるときぐるりと視点の(認識の)転換が起こり
それを認識する、気づきに気づく、ということが起こってくることです。
この気づきが純粋な意識そのものであって
私たちのこの現われ全体を知覚している、私たちの本質そのものです。
このように、意識の内にも関わらず、潜在意識下を無意識と言いますが
それは顕在意識でもって、直接の認識、知るということが難しいことを意味しています。
しかし顕在意識のうちにも、無意識の状態はあって
それが、思考(あたまのおしゃべり)に没頭していることです。
そのとき、私たちは意識的な生き方を放棄しているのです。
この、思考に没頭することに気づきをもたらすならば
この生そのものが、意識そのものだったことに気づくことでしょう。
そのとき、この自分存在こそ全体そのものであり
世界を内包する、純粋な意識そのものであることが知られるのです。
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