本質の自己の視点で生きるとは

例えば、とても疲れているとして

その時あなたの頭の中では、何をしゃべっているでしょうか。


「あ~もう、疲れた~」

「足がパンパン。もう嫌になっちゃう」

「だから〇〇行くの嫌だって言ったのに~」

「✖✖さんのせいだわ。もう、サイテー」


こういうことも遠くなってしまって、想定が半端で申し訳ないのですが

つまり、どんな感じでも、頭の中ではあれやこれや飛び交っているわけです。

疲れたことから、いろんなことへと飛び火して、何かや誰かのせいにしたりすることだってあるでしょう。



想像してみてください。

このとき、頭の中がシーンと静まっていたら、どんな感じでしょうか。

そもそも頭の中で「疲れた」という言葉が出てこないわけです。

「足がパンパン」も出てきません。

誰かや何かのせいにもなりませんし、もちろん自分のせいも出てきません。


ただ、足の疲れの感覚はあります。

体は休みを要求するので、ただ休むことが起こるかも知れません。

甘いものの補給、みたいなことが起こるかも知れません。

さらに、じっとその疲れの感覚と共に在れば

それだけでその疲れは薄まってきたりするわけです。

しばらくそれに寄り添っていることで、体は復活してきたりもします。

自然にそれは起こってくるのです。


本質の自己の視点で生きることの、ほんの一端ですが、こんな感じです。

頭の中で、思考がネガティブエネルギーを創造しなければ

それだけで今ここに、苦の入り込む余地はなくなってくることです。




これは、ポジティブな思考に変換することとは違います。

ポジに変換して、成功する人もいますが

皆、持って生まれたポジやネガの内容や大きさ、量などは違っていますから

引き寄せやスピで言うように、同じようにやっても

上手くいく人と、何をやってもそうならない人が出てくるわけです。


それはつまり、どの手法も思考を使っているからです。

思考は自我です。

それらは、自我で自我をどうにかしようとしていることですから

どうしても限界があるというわけです。

自我が住んでいるのは、二元のこちら側だけで

二元とは、二極がある世界ですから

どうしたってポジがあれば、ネガがその裏側に引っ付いています。

なので、ポジ思考での成功は、いつかひっくり返って元に戻る恐れを含んでいるのです。


大事なことは、思考に頼ることのないこちら側で

自我を置いてきぼりにして、本当のあなたでもって生きることです。

恐れも心配もない、平穏と安心の紡ぐ、今ここを生きることです。

それが、本質の自己である、純粋な気づきの意識で生きていくことなのです。






日々のつぶやき ~mananaのブログ2~

いつも頭の中でぐるぐると渦巻いている思考。 それが自分と、これまで思い込んでいたけれど もしその思考が無くなったら その時それだけで、あなたが観ている世界はぐるりと反転します。 思考が無くなったそこは、在る、実存、プレゼンス、などと呼ばれるそれです。 本当の自分は、在るだけで満たされ、至福です。 存在は初めから至福であり、愛そのものであり、光です。 そこには、不安や恐れのかけらも見当たりません。

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