雄大な風景を俯瞰するとき
あなたは無になるでしょう。
山頂に昇る朝日、海に沈む夕日、山々に秋の気配を見たり
雪景色に圧倒されたり、夏の夜の花火大会ですら、そうでしょう。
美しさ素晴らしさに息をのむ、というようなとき
人は言葉をなくします。
言葉をなくして、ひたすら見つめつづけるのです。
そのとき、圧倒的な幸せを感じていると思います。
少し前、ニュースで花火大会帰りの少年がインタビューされていました
これまでだったら、きれいだった~とか、すごかった~みたいな感想が
「幸せだった~」と言っていたのです。
とても印象的でした。
これは一見、条件のある幸せのようにも見えますが
これこそが本質の自己、在る、そのものの感覚なのです。
「美しい景色を見たから(条件)」幸せを感じたのではなく
「美しい景色に息をのんで、思考が無くなったから」幸せを感じるのです。
私たちはもともと、在るだけで至福です。
その拡大するハートを感じて、素直に言葉にした声が
「幸せだった~」となって表現されるのです。
風景の美しさに圧倒されるとき
人は誰でも在るそのものとなるでしょう。
ただ、自覚がそこにないだけです。
そのことの指摘を受けて「ああ、これだったんだ」と腑に落ちたなら
気づきに気づいて
そこからこれまで人生の舵を取っていた人が、脱落し始めるのです。
これが、新たなプロセスの始まりです。
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