言葉と体験


実りの秋、豊穣の秋です。

夏の厳しい暑さが影をひそめて、涼風が吹きはじめ

豊かさが地上に満ちてくるとき

本質のわたしも、豊かさそのものとして

果てしなく拡大していくことを感じます。


本質のわたしとは

さえぎるものの無い広大さであり、拡大するパワーです。

それは愛とも、豊かさとも、輝きとも言えて

ただ、それらはひとつの表現でしかないので

本質はそれをはるかに超えているのです。


言葉とは概念であり、同時に観念をも含んでいて

発したとたんに、小さな囲いの中に閉じ込められるような感覚を得ます。

言葉はこれほどに限定ですが

私たちは、言葉をもって伝達することが標準です。

言葉はある意味発明ですが、それによって逆に伝達が狭められるのです。


これもひとつのカルマでしょう。

しかし、これもひとつの経験と言えます。

そして、それも気づきに他ならないことです。


素晴らしきかな。

この世界は、何ひとつとして、欠けたものがありません。

わたしとは、これほどまでに完全であることです。




ここから、ひとたび「私」という自我思考が起こったなら

瞬時に自我は起こり、現われ、自我の世界観が表現されるでしょう。

自我は有ると思えば有り、無いと思えば無いという

思い込みの世界です。

不足を嘆く自我は幻想です。

自分は欠けたものと認識しているので、まだ足りないと欲しがります。

けれどもそれは、思考エネルギーによって投影された、ホログラム映像ですから

そこに埋没するほどに、それはリアルとなってきて

本質の自己を見失うのです。


そこに本来の気づきを思い出させるのは

それではなく、こちら、という声掛けと体験です。

それによって認識の変更が促されて、迷子は解消され始めます。

そう、自我は、単純に迷子になっているだけなので

家へ帰る方向を、指し示すこと、それが正しいと認識してもうらうこと

言葉はそれだけでは伝達しきれませんが

体験とセットになって初めて、それがそうと知ることになるのです。







日々のつぶやき ~mananaのブログ2~

いつも頭の中でぐるぐると渦巻いている思考。 それが自分と、これまで思い込んでいたけれど もしその思考が無くなったら その時それだけで、あなたが観ている世界はぐるりと反転します。 思考が無くなったそこは、在る、実存、プレゼンス、などと呼ばれるそれです。 本当の自分は、在るだけで満たされ、至福です。 存在は初めから至福であり、愛そのものであり、光です。 そこには、不安や恐れのかけらも見当たりません。

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