見るものと見られるもの


私たちは、見ることを通じて世界を認識しています。

このことは、視覚のある人には共通の認識でしょう。

見るとは、あなたの主体的な行為と感じていることでしょう。


では、見られるものとは何でしょうか。

主体に対する客体(対象)ということですが

多くの人が対象と思っているのは

自分自身と感じている、この体や心、以外の全部でしょう。

mananaも長くそうと思い込んだ時期を過ごしてきましたが

ある時、それがひっくり返るのを体験します。


見るものと見られるものとが(体や心を含めて)

実は主体と客体という分離した状態のものではなく

それらは分かちがたくひとつ(一体)であり

すべてはこの本質の私(在る、プレゼンス)という主体の内側のこと

(内側という言い方をしていますが、外側があるわけではない)

世界には主体しかない、私しかない、それがいちなるもの、であること

というゆるぎない事実を知るときがくるのです。


見るということは、体験することです。

触って感じる、匂いや味や音を感じる

これらも体験することです。

この体験は、実は、分かちがたく気づきだと知るのです。

見ることは気づきそのものです。

触ること、匂うこと、味わうこと、聞くことも

すべては気づくこと、つまり気づきです。


すると、見ている対象と思っている何か、机やコップや木々や花など

これらも、見ることと別れていないことが分かります。

見ること=見られているもの

これは瞬時に、同時に起こっていて

あなたという主体にとって

決して見ていないときに、すでにそれ(対象)が存在しているという

証明ができないことに行き当たるのです。

見たその瞬間にしか、それを体験することはできない

ということに気づくわけです。


これは、ダイレクト・パスのエッセンスと全く同じことで

と、同時に、量子論の観察者効果と呼ばれることとも同じことなのです。






日々のつぶやき ~mananaのブログ2~

いつも頭の中でぐるぐると渦巻いている思考。 それが自分と、これまで思い込んでいたけれど もしその思考が無くなったら その時それだけで、あなたが観ている世界はぐるりと反転します。 思考が無くなったそこは、在る、実存、プレゼンス、などと呼ばれるそれです。 本当の自分は、在るだけで満たされ、至福です。 存在は初めから至福であり、愛そのものであり、光です。 そこには、不安や恐れのかけらも見当たりません。

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