非二元の概念に出会ったとき
自我(思考)は、分からないと言ってくるでしょう。
それはそうです。
これまで生きて来て学んだ中で知っている
考え方、概念、論理、、どれとも合致しませんから。
分からなくて当たり前です。
ただ言えるのは
頭の中の知識とは、まったく世界が、次元が違うことです。
知識とは、言い換えてみれば、限定です。
どれも、これこれであると、すでに決められたことを学びます。
人類が歴史の中で、知りえたこと
人がこの小さな頭脳で考えたこと
その、言わば結論を体系づけたものだからです。
これは、考えることの限界を表現しているとも、言えるのです。
翻って、本質からやってくることとは
人の頭の限界を、軽く超えていますから
始めから、考えて分かるはずがないことなのです。
自我には理解し得ないことです。
それは、ただ、やってきます。
そして、ただ、そうと知ります。
それは、叡智です。
なので、このブログの記事も、頭で理解しようとしないでください。
mananaも考えて書いていません。
流れ出すだけですから。
なので、ただそうかと、ふ~んと、流してもかまいません。
そうして、少しだけ記憶の端に止めておいてください。
そうしたなら、もしもあなたが本質の自己に触れたとき
(もうずっと触れっぱなしどころか、そのものなんですけどね?)
理解できない体験と出会ったとき
あ、これか!と、分かるかもしれないことです。
そのときあなたの頭の中では
自我はおしゃべりをしていないことでしょう。
何かしら、あまりのことに、声を失っているでしょう。
そのとき、この本質の光とは
思考の隙間をぬって、漏れ広がり
あまねく照らす光の筋となって
あなたの眼前を照らすことでしょう。
その瞬間に降りそそぐそれこそが、叡智なのです。
0コメント