頭の知識と本質の叡智


非二元の概念に出会ったとき

自我(思考)は、分からないと言ってくるでしょう。

それはそうです。

これまで生きて来て学んだ中で知っている

考え方、概念、論理、、どれとも合致しませんから。

分からなくて当たり前です。


ただ言えるのは

頭の中の知識とは、まったく世界が、次元が違うことです。

知識とは、言い換えてみれば、限定です。

どれも、これこれであると、すでに決められたことを学びます。

人類が歴史の中で、知りえたこと

人がこの小さな頭脳で考えたこと

その、言わば結論を体系づけたものだからです。

これは、考えることの限界を表現しているとも、言えるのです。


翻って、本質からやってくることとは

人の頭の限界を、軽く超えていますから

始めから、考えて分かるはずがないことなのです。

自我には理解し得ないことです。

それは、ただ、やってきます。

そして、ただ、そうと知ります。

それは、叡智です。


なので、このブログの記事も、頭で理解しようとしないでください。

mananaも考えて書いていません。

流れ出すだけですから。

なので、ただそうかと、ふ~んと、流してもかまいません。

そうして、少しだけ記憶の端に止めておいてください。

そうしたなら、もしもあなたが本質の自己に触れたとき

(もうずっと触れっぱなしどころか、そのものなんですけどね?)

理解できない体験と出会ったとき

あ、これか!と、分かるかもしれないことです。


そのときあなたの頭の中では

自我はおしゃべりをしていないことでしょう。

何かしら、あまりのことに、声を失っているでしょう。

そのとき、この本質の光とは

思考の隙間をぬって、漏れ広がり

あまねく照らす光の筋となって

あなたの眼前を照らすことでしょう。

その瞬間に降りそそぐそれこそが、叡智なのです。






日々のつぶやき ~mananaのブログ2~

いつも頭の中でぐるぐると渦巻いている思考。 それが自分と、これまで思い込んでいたけれど もしその思考が無くなったら その時それだけで、あなたが観ている世界はぐるりと反転します。 思考が無くなったそこは、在る、実存、プレゼンス、などと呼ばれるそれです。 本当の自分は、在るだけで満たされ、至福です。 存在は初めから至福であり、愛そのものであり、光です。 そこには、不安や恐れのかけらも見当たりません。

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