日々の暮らしの中で思考が無い瞬間に気づいたとき
当然そこには「気づき」しか無いのですが
考えが頭に浮かばなければ、行動も無いかと思うどころか
思考が無くなったら、自分が存在できなくなる恐れさえあるかも知れません。
けれども実際にはそうではなく
確かに思考である自我は居ませんが、私は在るばかりか
自然必然に「する」という行為もやってきます。
それは文字通り「起こる」のです。
ここで、「思考=自我はあなたの主人ではない」ことを実感するでしょう。
これまで普通に私たちは
思考があるから行為があると、思ってきたかも知れませんが
実際に思考が無くなる瞬間を体験することで
簡単にそれがそうではないと、理解されるわけです。
思考は行為よりも後にやってきます。
何かを成すという衝動が先にあって
それを脳がわずかな時間差で受け取って、そう思考するのです。
思考があるときには、見抜けないほどわずかな差ですが
明らかにそこには、タイムラグが存在します。
行動が自然に起こってくることなら
それはどこからやってくるのでしょうか。
その答えが、源である真我、無、空であるこれです。
在る、プレゼンス、実存などとも呼ばれますが
どんな名前で呼ぼうと、名づけは思考のすることです。
それを識別するために、そう呼ぶだけなのです。
けれども、そもそもこれに名前などはなく
識別される対象でもなく
これ自体が本体であり、主人であるのです。
わたしたちの有ると感じている体も、思考も、感情も
世界に映し出された、一見さまざまなものたちも
この全体意識の内に、表現されているのです。
これのみが実存であることです。
自我(思考)が引っ込んだことで
本質の自己からの起こりが、純粋に表現され始めたとき
自我があれほどしたいと願いながら、できなかったことが
自然に起こり始めることに気づきます。
自我では不可能だった方向性が示され始めるのです。
そこにはただ、純粋な信頼があると気づきます。
純粋なくつろぎがあると気づくのです。
そしてひたすらな開かれと、サレンダーに気づくことでしょう。
そのとき驚きを感じるかも知れませんが
自我の原動力であった、欲や執着は残っていないことも知るでしょう。
何かを引き寄せたと喜ぶ人はもう居ない、というわけです。
ほんとうのわたしとは
何があろうとなかろうと、ただ在るだけで至福なのです。
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