これもひとつの見方にすぎませんが
例えば、昨日引用したグレッグ・グッドのダイレクトパスは、彼自身が心理学や哲学を学んだということもあってか、理論的かな~という印象に気づきます。
いわば自我に反論の余地を与えなくしていくように感じられるのですが、その結果自我は居場所を失ってしまい、自分は居なかったと悟らずにいられなくなるのでしょう。
これは、左脳優位タイプの人に向いているかもしれません。
直観や感情優位の右脳タイプの人には、向いていないのかもと感じるのです。
また、ラマナ・マハルシは「私は誰か」と問い続けよ、と言います。
以下、『ラマナ・マハルシの言葉』や『ラマナ・マハリシの教え』に収録されている、ラマナの教えの神髄が説かれている28の問答集『私は誰か』より。
「どうすれば心は静かになるのでしょうか?」
「私は誰か?」と尋ねることによってである。「私は誰か?」という想念は、他のすべての想念を破壊するだろう。そして燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、ついには「私は誰か?」という想念そのものも滅ぼされてしまうだろう。そのとき真我は実現されるだろう。
「心を静かにする他の方法はないのでしょうか?」
探究以外に適切な方法はない。他の方法で心を静めても、心は制御されたように見えるだけで、再び勢いを増して現れるだろう。呼吸の制御によっても心は静められるが、それは呼吸が制御されている間だけのことであり、呼吸が元に戻れば心もまた活動を始め、潜在する印象に駆りたてられてさ迷いだすだろう。心も呼吸も、その源は同じである。想念とは、実は心の本性である。「私」という想念が心の最初の想念であり、それが自我性である。
ラマナは瞑想やヨーガは助けになるが、「呼吸を制御する修練は心を静める(マノニグラハ)助けにすぎず、心の消滅(マノナーシャ)をもたらすことはない」とも言っています。
ドクター フランク・キンズローが、思考を遮断する方法としてピュア・アウェアネス(PA : 純粋な気づき)という言葉で、QE(クオンタム・エントレインメント:瞬間ヒーリング)の、気づきについてYouTubuで説明している動画がありました。
アメブロのmananaのブログでご紹介したら、かなりのアクセスがありましたが、動画の説明だけで思考が遮断されるということも少ないのかなと思うのです。
古今東西、さまざまに人はこれ(無我、無思考~そこから本質の自己に至ること)に取り組んできたことが、ここに上げたほんの数例でも、とてもよく分かると思うのです。
人類はいったいどれだけそれを求めてきたのでしょうか。
この秋、ひとつの答えが立ち現れるように感じているのですが
それはとても楽しみで、ワクワクするのですね。
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