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あえて「遊び」です。
現象自体の真実味が薄れているので。
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思考を見つめ続けようとすると、ふわふわとそれは際限なく湧き起こる。
それらはすべてが自動で起こってきていて、源泉は見あたらない。
それよりも、自己の中心と思われる方向を追求していく。
ハートでも、眉間でも、頭の上でも、後方でも。
目を開けたままだと、文字を読みに行きたくなる衝動がやってくる。
普段読まない本にまで手が出そうだ。
自我がじたばたし始めるからだ。
なので意識を内に向けて、文字のないところを見つめる。
見つめ続ける。
。。。。。。。
無思考が起こり、もあもあと湯気のような、気、オーラ、が見え始める。
無思考が起こった段階で、自我は退場している。
または、目を瞑って
あるはずはないが、自己の中心と思われる方向、場所を目指す。
内側にねじり込む、ぐいぐい入り込む。
じきに眠気がやってくることもある。
それでもあるはずのない自己の中心を求めて突き進む。
。。。。。。。
しばらくして目を開けると
無風または無重力とはこんなだろうかという感覚を覚える。
そのとき、無思考。
無思考とはつまり、風もなく重力もない状態なのだ。
だが、じきにそれを解説したがる思考がちらちらと出現しはじめる。
その繰り返しで、あきるまで、
または完全に現象側に引き戻されるまで繰り返す。
今はここまで。
やはり、活動はすればするほど、現象側に引き戻されるのは自明で
逆に言えば、活動が起こるうちはまだ現象側に留まっていることと言える。
自己探求遊びは、動的要素のないところでのみ起こるので
本質の自己に目覚めたければ、止まりなさい、動きを止めなさい
ということになるのです。
真実はこれのみと感じます。
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