今年の5月にAmebaのmananaのブログの方に書いた記事を一部引用します。
悟りということについて、仏陀は明確に説明していました。
mananaは、仏教については平均的な日本人レベルですが
この、悟りの段階が4段階あると明確に説明した階梯については、とても参考になりました。
仏陀は悟りとは、預流果(よるか)、一来果(いちらいか)、不還果(ふげんか)と進んで、最後に阿羅漢果(あらかんか)で完成すると言っています。
悟りの段階が進むことは煩悩が落ちて智慧が表れることと、とても明確です。
この各段階に達するには、ごく簡単に言ってしまうと
「一瞬でも無我を体験をして「ああ私は居ないのだ」と納得すること」
であり、
3段階目の不還果に達するときには、一瞬の無我だけでない圧倒的な禅定体験が必要と説いていて
最終段階の阿羅漢果にまで至るには無我無常を完璧に体験する必要がある
にしても、
「最低でも4回無我の体験をすること」
と、言葉にすると、とても明確で簡単なのです。
そして禅定体験とはただの煩悩停止状態といいます。
この禅定状態も、悟りではなく、輪廻の世界です。心が全ての感覚から離れただけで、心はずーっと流れ続けますが、そのエネルギーが尽きて滅するわけではありません。禅定から起って、心の概念を含めた六感の世界に戻ると、元通りの身体や概念が戻ってきます。禅定状態は、煩悩を滅して智慧が現れる悟りの状態ではなく、煩悩が、その間だけは単にはたらいていない、ただの煩悩休止状態なのです。
これは3段階目の不還果の説明の一部ですが、これを見ると、現代のいわゆる覚醒したティーチャー達は、ほぼここに入るようです。
この先の阿羅漢果へと至ることは、過去に照らせば非常にまれと言えるのです。
それでも、たった4回の無我体験です。
仏陀の言う『無我』とは、読んで字のごとく、自我が無いことですが
自我が無いとは、思考が無いことです。
逆を言えば、頭の中で「私は居る」と言っているので
それを掴み、それを信じ、それが現実となり、私が居ると感じられるわけです。
なので、
『一瞬でも無我を体験をして「ああ私は居ないのだ」と納得すること』
ということとなるわけです。
ここで大切なことは
"「ああ私は居ないのだ」と納得すること"
これに尽きるのです。
体験があっても、それが自我の納得に繋がらなければ、『気づきに気づく』に繋がりません。
その体験が何かを、自我が知ることができないと
凄い体験だった、素晴らしい体験をした=私は人とは違う、稀有な体験をした
となって、自我がそれを掴んで増長することも大いにあるのです。
人によっては、どうしよう狂ってしまったかも知れない、と、恐れを掴むかもしれないことです。
また、いくら瞑想をしても、禅定体験のみで無我に至らないことも多くありますが
それは、その素晴らしい禅定体験を掴んでいる自我が居る、ということですし
上記の「=私は人とは違う、稀有な体験をした」という自我の増長と同じことです。
プラス、mananaには「ほれ、それ!」と指摘される体験の欠如もあると感じるのです。
そこで自我が納得するかどうか、それが肝心と言えるのです。
何が良いとか悪いとか、そういうことはありません。
ただ、覚醒ってこんなに簡単!って思えるような体験をしたら
それだけで、つまり気づくだけで
ほんとうにこんなに簡単で楽な人生を歩めるという
まれな時代をわたしたちは生きているわけです。
たった4回、無我(無思考)を体験するだけで
単純に回数だけではないにしても
そうと納得して、そこに浸るだけで
あなたの人生は、明らかに変わります。
それは、覚醒、悟りという御大層なこととしてではなく
ただ自然に、苦しみを掴まず、あるがままに生きるということなのです。
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