manana

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自己探求遊び ~無思考のために

アメブロ記事と内容がリンクしています。あえて「遊び」です。現象自体の真実味が薄れているので。~☆~☆~☆~☆~☆~思考を見つめ続けようとすると、ふわふわとそれは際限なく湧き起こる。それらはすべてが自動で起こってきていて、源泉は見あたらない。それよりも、自己の中心と思われる方向を追求していく。ハートでも、眉間でも、頭の上でも、後方でも。
目を開けたままだと、文字を読みに行きたくなる衝動がやってくる。普段読まない本にまで手が出そうだ。自我がじたばたし始めるからだ。なので意識を内に向けて、文字のないところを見つめる。見つめ続ける。。。。。。。。無思考が起こり、もあもあと湯気のような、気、オーラ、が見え始める。無思考が起こった段階で、自我は退場している。または、目を瞑ってあるはずはないが、自己の中心と思われる方向、場所を目指す。内側にねじり込む、ぐいぐい入り込む。じきに眠気がやってくることもある。それでもあるはずのない自己の中心を求めて突き進む。。。。。。。。しばらくして目を開けると無風または無重力とはこんなだろうかという感覚を覚える。そのとき、無思考。
無思考とはつまり、風もなく重力もない状態なのだ。だが、じきにそれを解説したがる思考がちらちらと出現しはじめる。その繰り返しで、あきるまで、または完全に現象側に引き戻されるまで繰り返す。
今はここまで。やはり、活動はすればするほど、現象側に引き戻されるのは自明で逆に言えば、活動が起こるうちはまだ現象側に留まっていることと言える。自己探求遊びは、動的要素のないところでのみ起こるので本質の自己に目覚めたければ、止まりなさい、動きを止めなさいということになるのです。真実はこれのみと感じます。

無思考、無我の体験のその先は

お試しセッションで波動が高まると無思考、無我の体験が起こりそれによって本質からの光が差し込みます。すると、一元の体験に近い感覚を覚えさらに大きく浄化が起こってくるのです。mananaが驚くほど、クリアになる方がいらっしゃいます。ただこれは体験なので、ほとんどの場合一時的なものです。1か月も経たないうちに波動も感覚も、ほぼ元に近いところまで戻ることが多いです。長い目で見れば、更なるプロセスがそこから始まっているのですが今生、高いハードルを掲げてきたケースでは気づきに気づいたこととのギャップを埋めるためにそこから始まるプロセスはハードでしょう。それをひとりで何とかしようとするのはなかなかですからそのために、週一のセッションが用意されています。サイレンスレゾナンスセッションは真に覚悟のできた人のために生まれました。覚悟とは、覚醒し悟ると書くようにそれには思いが強くないと乗り切れないこともやってきます。なにせ、自我(自分と思い込んでいる思考、考え)が薄まり、落ちるのですから当然いざとなれば、自我は恐れます。そのときどうですか?このまま続けたいですか?と問われるわけです。こちら側(現象界)も、悪くないよ?もう少しこちら側で遊んでっても良いんじゃない?などと誘惑の声が掛かります。でもそこでの遊びは、苦しみとセットです。それで良いのか、どう生きたいのかもう苦しみは卒業したいのではなかったのか。そんな風に、問われて決断する時期が必ずやってきます。あなたは、どうですか?

ダイレクトパス実験




物には、みな、さまざまに思考がくっついている。例えば、ミカンを見れば、その甘さや酸っぱさだけでなくどこそこでいつ買ってきた、どこ産のミカンだ、などと。ふとテーブルのカップを見れば、誰それのカップであるとまずその所有者が浮かび、さらにそれにまつわる思考が浮かぶかもしれない。テーブルを見ればそれがテーブルだと認識し壁や天井を見るならば、それは壁だ天井だと認識している。実は、この一見あまりに当たり前すぎることがわたしたちの認識をゆがめ、正確に物を見ることをゆがめているのです。
ミカンと自分との間に距離はあるか?と問われたとき自分はこの思考感情であり、この体に居る。ゆえにミカンやテーブルとの間には距離がある。壁や天井との間にも距離がある。と、そう考えが認識しているだけなのです。この、感じる距離とは、自分は体だからこそであり体を基準に距離を感じているわけです。この考えを捨ててみたとき、必然的に主体と客体が消え失せてしまい見ているミカンは見ているはずの自分そのものとなるのです。そこに距離なんてなかった。自分とミカンの間には、何の違いもなかった。自分は同時にミカンであり同時にテーブルであり壁であり天井であると知るわけです。と、こんなダイレクトパスの実験を少し前にRPGK(リアルピグ共鳴)の集いでやってみた。気づきのある人は、さらに気づきが深まりますね。

幻想からの離脱

駅前のケヤキ並木もすっかり色づいています。美しく秋が深まっています。わたしたちの意識も深まっています。セッションに来てくださっている方々にも幻想からの離脱が起こってきています。
分かってしまえば、一気呵成です。わたしたちは、もともとこれだった。これ~気づき、在る、意識~でしかなかった。気づきがひたひたと浸潤していき自我はいつの間にか遠ざかっていくのです。それまでずっと、頭の中に住んでいて不思議とも思わなかったことが、ひっくり返るのです。みな誰もが、もともと気づき(在る、意識)であること一旦これに気づいてしまえば、否定することは何もなくなり全体の意識へと視点が移動してしまうことでもう本質の自己にすべてお任せとなるから大丈夫ではないことなんて、ひとつもなくなるのです。
思考を掴むなんて、逆にできなくなる。すべてが流れ去ってしまうから!今ここには、過去も未来も持ち来むことなんてできないのだから。 分かってしまえば、既に知っていたと分かり壮大なジョークのようだと笑いお芝居をしていたと思ったりゲームのように例えられること。それが、意識の目覚めが起こったことを知らせてくれるのです。わたしたちの生には、何ひとつ無駄なことなどありませんが一見、こんな遠回りをして、やっと気づくこともあるんですね。

欲望はそこにある ~覚醒の炎より~

~前略~欲望はそこにある。いつも、いつのときも、そこには絶えざる欲望がある。自由に達した後でさえ、それはまだ続いていく。自由は顕現(世界の現われ)を消し去ることを可能にする。その瞬間、あなたは非顕現に入る。非顕現からこの欲望は起こるのだ。それはその彼方を探し求めようとする衝動だ。これは測り知れない海、底なしの海だ。それはすべての概念を超えている。それは意識そのものだ。そしてその深さを測った者は誰もいない。空の中でさえ、この「非顕現」と呼ばれる状態の中でさえ、この「非顕現」、この自由を超えていこうとする衝動が起こるのだ。あなたが自由を得たとき、あなたが束縛からの自由を勝ち取ったとき、あるいはむしろ、束縛という概念からの自由というべきだろう。なぜなら、束縛はまったくの想像でしかないからだ。ある人が自分は束縛されていると想像し、終わりのない誕生と死のサンサーラ(輪廻)に捕らわれていると考える。それゆえ、自由への欲望が起こる。自由が束縛を破壊するわけではない。束縛は実際に存在しないからだ。それは束縛という概念を破壊するだけだ。束縛が概念であるため、あなたがそれを信じている間は、束縛からの自由もそれに関連したもう一つの概念でしかない。自由とは、その両方の概念から自由になることなのだ。~後略~『覚醒の炎―プンジャジの教え』p.244-245 より